音楽とは何か、音楽とはどんな存在か、音楽の意味…これらを定義するのはあまり簡単ではありませんが、この記事ではそれを徹底的に考えてみます。みなさんの論文にもお役に立てると思います。
もくじ
「音楽って何?」と聞かれたら、何と答えますか?
「音楽」というものを知らない人に説明すると思って考えてみてください。
意外かもしれませんが、この問いに正解はありません。
どのような単語が(現代の私たちがイメージする)「音楽」を指すかは、実は言語や文化、時代によって少しずつ変わってきます。
現代の日本では「音楽」という単語が使われていて、それが英語では「music」という単語で表現されています。
その「music」という単語は、ギリシャ神話で文芸を司る9人の女神(叙事詩・歴史・叙情詩・喜劇・悲劇・舞踊・独唱歌・物語・天文)を表すムーサイ(Moũsai / Μοῦσαι)の技を表すムーシケー(mousikḗ / μουσική)を語源として生まれたとされています[1]。つまり、「ムーシケー」は「music」よりも広い範囲を指していて、私たちがイメージする「music」的なものは「ムーシケー」の中に含まれていたそうです。
日本では、私たちがイメージする「音楽」的なものを表す単語として「うたまひ」などがあったようですが、「うたまひ」は「ムーシケー」のように「音楽」よりも広い範囲を指していたようです[出典調査中]。
一方で、2005年秋時点でラジオやインターネットがなく、外部の音楽を聴いたことがなかったカメルーン北部のマファ族は、欧米や日本の人間が聴けば「音楽」だと感じる文化を持っていますが、少なくとも2005年秋時点で彼らの間には(現代の私たちが考える)「音楽」という概念は存在しなかったようです[3]。
まとめると、次の3パターンがあることになります。
人類の歴史は数百万年もあるのに、たった数千年のあいだにここまで「音楽」を指す単語が変わっていることを考えると、今から数千年後にはまた変わっていてもおかしくはありません。
次の4つの音を聴いてみてください。
それぞれ、あなたにとって「音」ですか?それとも「音楽」ですか?
実際、ワークショップで上の音声を流してから同じ質問をすると、「音だと思う」人と「音楽だと思う」人で意見が分かれます。
ここから、「音」と「音楽」の境界線は人によって違うということがわかります。
ただでさえ言語や文化、時代によって表す単語が変わってきた「音楽」が、人によって定義が変わるとなると、もはや「音楽とはこういうもの」という定義をすること自体に無理があります。
つまり「音楽とは何か」という問いに対する答えは言語、文化、時代、人によって違うため、一概に定義できないということになります。
定義できたとしたら、それは例えば
になりそうですが、これはあなたの中の定義であって、全人類に共通するものではありません。
「音」と「音楽」は何が違うのでしょうか?
「音」は「聞こえる振動」という物理現象ですが、「音楽」も「聞こえる振動」という物理現象なのは同じです。
ということは、音と音楽の違いは音楽の定義次第ということになりますが、その音楽の定義自体が言語や文化、時代、人によって変わります。
つまり音と音楽の違いも言語、文化、時代、人によって違うため、一概に定義できないということです。
ちなみに私は、このように考えています。
音楽 = 概念づけられた音
…意味がよくわかりませんね。できるだけイメージしやすい言葉にしようと頑張ってみたのですが、そうすると「あてはまらない音楽」が出てきてしまうので、これが精一杯でした。
何が言いたいかというと、たとえば誰かが「ファ〜」とあくびをしたとします。このあくびは、誰かが「音楽だ」と言わなければただの「音」ですが、「音楽だ」という概念づけをすることで、ただの「音」が「音楽」に変わるということです。
…なんとなく伝わったでしょうか?筆者の中では、「音」と「音楽」の違いは、たったこれだけです。
まったく音が存在しない作品があったとしたら、それは私にとって「音楽」ではありません。
とはいえ、「ファ〜」は私たちがイメージする「音楽」とはだいぶ違いますね。ではどんなものがあれば現代の私たちが考える「音楽らしさ」が強くなるでしょうか?
私は、2つの要素が関係していると考えています。
ただの物音であってもそこに「パターン(規則性・秩序)」があるだけで、ただの「音」から「音楽」へ近づくのではないか、と筆者は考えています。
この鳥の声を聴いてみてください。
これではあまり音楽だとは感じにくいかもしれませんが、こちらはどうでしょうか?
最初の鳥の声に規則性(秩序)をつけてみました。私はこちらの方が、最初の音よりも「音楽」に近いと感じます。
これはどうでしょうか?楽器として作られていないものから出る音ですが、規則性を持たせることによって「音楽」だと感じさせようとしています。
テレビやラジオの砂嵐(チャンネルが合っていないときの「ザー」)や波の音というのは、音の高さを感じにくいですね。それに対して鳥の声や車のクラクションは感じやすいと思います。
この「高さを感じやすい音」があるかないかでも、ただの「音」と感じるか「音楽」と感じるかが変わってくるのではないか、ということです。
上でご説明した「パターン(規則性)」は「リズム」、「音の高さ」は「メロディー」に似ています。
ですが、「リズム」という用語を使ってしまうと「リズム感がある/ない」という必要のない評価が生まれたり、「メロディーに合わせる」というような「従わなければいけない概念」のようなイメージを抱いてしまう可能性があるため、あえてそのような用語を避けるようにしています。
現代の日本ではヨーロッパをルーツとする音楽が浸透していて、ヨーロッパで生まれた音楽を「音楽」、そうでないものを「民族音楽」と呼ぶ傾向があります(個人的にこの呼び方はヨーロッパの文化が他の地域の文化に比べて上位にある・洗練されているというような上から目線の表現に聞こえます)。
そのため、無意識のうちに「音楽」=「ヨーロッパの音楽」になり、『典型的なヨーロッパの音楽は「メロディー」「ハーモニー」「リズム」という概念で説明できる』というひとつの見方が『すべての「音楽」は「メロディー」「ハーモニー」「リズム」で説明できる』と誤解され、さらに『「メロディー」「ハーモニー」「リズム」があって初めて「音楽」になる』という極端な解釈まで生まれてしまったと考えています。
実際、音楽を教える立場の方が「メロディー、ハーモニー、リズムが音楽の3要素である」と公言していることがよくありますが、それはヨーロッパをルーツとする音楽の捉え方のひとつであり、「正解」ではないことを覚えておいてください。
先ほどの「音楽の定義は変わり続けている」のところで登場したカメルーンのマファ族のお話は、実はマックス・プランク研究所(ドイツ・ライプツィヒ)のトーマス・フリッツ博士が行った研究の一部です[1]。
フリッツ博士は2005年秋、西洋音楽を聴いたことがないカメルーン北部マンダラ山地のマファ族の人々に西洋音楽を聴いてもらい、その音楽からどのような感情(喜び、悲しみ、恐怖)を感じ取るかを調査しました。
その結果、マファ族の人々はこれまで西洋音楽を聴いたことがないにもかかわらず、西洋音楽の中で表現された3種類の感情をある程度感じ取りました。
偶然なら認識率が33%のところ、喜びは約60%、悲しみは約50%、恐怖も約50%だったとのことです。
この結果からフリッツ博士は「西洋音楽の中で表現されている基本的な感情は世界的に認識される」としています。
西洋の人々に同じ調査を行うと、喜びは約100%、悲しみは約90%、恐怖は約80%となり、マファ族の人々とは明らかに認識の違いがあることがうかがえます。
その違いはマファ族の人々と西洋の人々の(音楽の中での)感情表現の違いによるものだとは想像できますが、これはもしかしたら「人類に共通する音楽の感覚がある」という証拠のひとつになるのでしょうか。
筆者としては、その可能性もあるが、もしマファ族の人々と西洋の人々のルーツに共通点があるのなら、その時代から「音楽」的な何かが存在していた可能性もあると考えています。
音楽はなぜ存在するのでしょうか?
(現在発見されている中で)世界でいちばん古い楽器とされているものが現在のドイツ・シュヴァーベンジュラ山脈で発見された4万3000年〜3万5000年ほど前のもの[4]なので、少なくとも3万5000年前から「(私たちがイメージする)音楽」のようなものが存在することになります。
ですが、これはあくまでも「現代の私たちが見つけられる範囲内にあった、現代の楽器に似ている道具」であり、それより古いものは現代の楽器に似ていないから認識されていないのかもしれないし、そもそも道具を使っていなかったかもしれません。
音楽がなぜ存在するのか、そしてどのようにして生まれたのかは、わかっていません。
様々な説は存在し、私たちも仮説を立てることはできますが、おそらくそれを確かめることはできません。
ただ、仮説を立てるにしても、現代の意味での「音楽」を基準に考えない方がいいかもしれません。
現代、私たちは「音楽」を「演劇」や「身体表現」と別のものとして考えていますが、過去にはそれらは同じものだったこともあるし、もっと大きいものの一部、あるいは人間の英知を超えた「何か」であった可能性もあります。
演奏をしているときの高揚感は、気の合う仲間と話しているときの楽しさやおいしい料理を食べているときの幸福感と同じものだったかもしれないし、それはまるで空気のように当たり前のものだったかもしれません。
ところが人間が進化するにあたって、それがいつしか当たり前でなくなり、「音楽」や「演奏」という分類や「上手い・下手」や「才能がある・ない」という評価を始めた結果、音楽はどんどん特別な存在だと思い込まれるようになったのかもれしれません。
音楽には記憶力を向上させたり、欠如した身体能力を補ったりする力があるという研究結果をたまに見かけますが、そちらが元々「当たり前」の機能で、今は失われたものだとしたら、音楽に特別な力があるように感じることにも説明がつきます。
「音」を出してくださいと言われたら誰でも、例えば手を叩いたり声を出したり、何も考えずに「音」が出せます。
ところが「音楽的な音」を出してくださいと言われると、「こうしなければいけないんじゃないか」「これでいいのかな?」と、急に自信がなくなってしまう。
それは、「音楽ってこういうものだよね」というイメージができあがっている証拠です。
おそらくその中には、まず楽器の弾き方や五線譜の読み方を習って、ドレミやコード進行に沿って「上手な」演奏をしなければいけない、というイメージがあることでしょう。
そして、少しでもそこからそれてしまうと、
…と、あれこれ判断されたり、自分も判断する側になることもあります。これはつまり、音楽に対してこのような見方をしている、ということです。
少なくとも現代では、このような見方が「当たり前」です。ただこれは、言い方を変えれば「ひとつの見方に縛られている」、もっと言えば「表現の自由を奪われている」ようなものです。
確かに「正しい」「見習うべき」存在がはっきりしているのはわかりやすいし、どこへ行っても音楽の表し方が同じなのは便利です。どこの楽器屋さんにも同じ楽器が置いてあるのも便利です。
しかしこの「便利さ」や「わかりやすさ」に頼りすぎてしまったために、もっと大切なものを犠牲にしていると筆者は考えています。
それは「個性」や「創造力」です。
「個性」や「創造力」は誰の中にもあり、それは「その人らしさ」「持ち味」そのものです。
しかしそれに気づかず通り過ぎてしまえば、やがて上書きされて消えてしまいます。現代の音楽の世界で「個性」や「創造力」にきちんと向き合うことができる機会は、残念ながらほとんどありません。
ある音楽が「良い」、ある音楽家が「天才」とされていることで、それと比較したりされたりすることで「自分にはできない」と勘違いをして音楽から離れてしまったり、そのまま一生を過ごしてしまう。
このように、音楽の授業や音楽学校で学んだりすると、まるでそれが音楽のすべてであるかのように見えてしまいます。しかしそれは音楽の見方のひとつでしかなく、実はそうではない見方をすることはできます。
現代では人類の大部分が同じ楽器を使って似たような音楽を作ったり聴いたりするようになり、まるで「人類共通の音楽」のようなものができあがっています。
私たちはその影響を受け、それに従うようになったので、そこに人類共通のルールや優劣、正解や不正解、タブー、暗黙の了解のようなものがあるように見えてしまいますが、それは錯覚です。
このようなものもまた人間があとから作り出したものに過ぎないし、それは人間の中で生まれた見方のひとつでしかないということを覚えておけば、音楽表現で迷うことはないでしょう。
こうして音楽の謎を体感してみると、当たり前だと思っていた「音楽」がいかに狭いものだったが見えてきます。
実際、現代の音楽教育はその狭い視野を受け継いでいるので、みなさんもその影響を受けているかもしれません。筆者もそうでした。
しかし、こうしていろいろ考えてみると、音楽を別の角度から見ることができるようになり、自分の音楽を否定されるようなことがあっても「あの人の見方を押し付けられているだけだよね」「視野の狭い人かもしれない」と客観的に受け止めることができるようになります。
これは、自分が望む表現をするために今何から始めるべきかを教えてくれる、とても重要な考え方だと思っています。
あなたにとって、「音楽」とは何ですか?
小山和音
こやま・かずね
世界にひとつだけのオリジナルの楽器をデザインし、五線譜ではない楽譜やドレミではない音律をグループで話し合って作り、それらを使って音楽をゼロから創作する音楽教育プログラムを中心に、音(楽)にまつわるユニークな取り組みをしています。お仕事のご依頼やコラボレーションのご提案など、お気軽に!