音楽を生み出すのに「才能」は必要でしょうか?今回はそれをご一緒に考えていきましょう。
もくじ
学校の音楽の授業や音楽学校はもちろん、配信や音楽の雑誌などでもいろいろな(有名な)音楽家を見かけます。
こういうものに見慣れてしまうと、ここで見かける人たちには「才能」「素質」があり、それ以外の人々は「才能のない人」のように見えてしまうかもしれません。
確かに音楽の先生や音楽家の中には「音楽を生み出すには『才能』が必要だ」と考え、「あなたには才能がない」「あなたは音楽に向いていない」と言うような人までいます。
悲しいことに音楽の世界には、このように主観(自分の考え)と客観(事実)をごちゃ混ぜにして、自分の考えが正しいと思っている音楽の先生や音楽家がたくさんいます。このような世界でみなさんの音楽を守っていくには、まず「ものごとを客観視する」必要があります。
まずは「才能」という言葉について考えてみましょう。辞書には「物事をうまくこなす素質や能力」と書いてあり、これは私たちの認識とほぼ同じかと思います。つまり、「音楽の才能がある」というのは「音楽が上手い」という意味になります。
例えば言語なら、言葉をどのような意味で受け取るかは人によって少しずつ違うこともありますが、「意味が伝わっているかどうか」で判断できるので、細かいところまでたくさんの意味を伝えられる方を「上手い」、そうでない方を「下手」というように評価することができます。
ところが言語と違って音楽に意味は含まれていないので、音楽の中のどの事実から「上手い」か「下手」かを評価するかは人や文化、時代によって大きく変わってきます。
しかもその人の好み次第なところが大きいので、客観的な評価基準(上手いか下手か)というのは本来作ることはできないはずです。
それがあるように思えてしまうのは主観と客観を混同している人(例えば「この音楽家はすばらしい」と生徒の前で言う音楽の先生)があまりにも多いためです。
音楽に「上手い」や「下手」がないということは、「才能があるかないか」という評価の基準も作ることはできません。
それに「才能」という言葉には生まれながらにして持っている性質(素質)という意味がありますが、これも優劣で判断できるようなものではありません。
確かに人それぞれ生まれ持った表現に違いがあるかもしれませんが、それは個性であって、才能が「ある」「ない」というような単純なものさしで測ることはできません。
つまり音楽を生み出すのに才能は必要かという問いには意味がないので、誰かからあなたの「才能」について何かを言われたとしても、無視してしまって大丈夫です。
筆者は、人が音楽を生み出すお手伝いをする人間として、「才能」「上手い」「下手」といった評価を一切しません。もう少し正確に言うと「才能」「上手い」「下手」というものさしは筆者の中に存在せず、それを他人から言われても聞き流すことにしています。
もちろんこのような主観を表に出すのは自由ですが、それは人に潜在的な影響を与えることもあるし、多くの人が同じことをすれば社会にも影響を与えます。
「才能」という言葉が人を音楽から遠ざけていることを考えると、このような言葉は使わないようにした方が一人一人の表現の幅や可能性は広がる、と筆者は考えています。
「天才」とされている音楽家は世の中にたくさんいますが、「多くの人が言っているんだから良いに決まっている」と考えてしまいがちです。
自分らしさを忘れないために大切なことは、このようにまるで「事実」や「暗黙の了解」「当たり前」のように扱われていることも、まずは「本当にそうか?」と客観視してみることです。
そうすることで自分の主観を人々の主観からしっかりと分けることができ、自分の音楽を大切にすることにつながります。
ご自身のことを「才能がない」と思われている方も同じで、まずその「才能」というものさし自体が社会によってつくられた思い込みであると考えてみてください。
客観的に音楽を見てみれば、音楽というのは音、つまり物理的にはただの振動なので、そこには「上手い」も「下手」も「才能」もないのです。音楽はただの「音」で、それは人の中に入って初めて「音楽」になるのですから。
「才能」などということを考えずに、もっと気軽に、心から音楽を楽しんでみましょう。
小山和音
こやま・かずね
音楽教育の新しいかたち作り(創造性と個性を最優先に、音楽を教えず、評価せず、楽器や楽譜を自分でデザインしてゼロから音楽をつくるオンラインの音楽教室)と、音の生まれるしくみ作り(周囲の条件に反応して音楽や音声をリアルタイムに生み出すシステム開発)。